街とともにある映画館
2009.10.13
この映画館で映画を観ながら
微笑みが自然とこぼれ、そして、涙がひとつぶでも頬を伝うようであるならば
たとえ、月日がどれだけ無慈悲に流れていってしまうものだとしても
そしていま、時代がどれほど荒んでしまっているのだとしても
まだ大丈夫。
希望はあるのです。
(チャールズ・チャップリン;「キッド」1921年)
前口上
昭和32(1957)年、群馬県内には87の映画館があったといいます。
前橋市の中心市街地にも9館あったそうで、入場者は1年でなんと294万人。当時の前橋の人口が17万5千人で、映画を観ていたのがその半分だとしても、ひとりが1年に34回は、暗がりのなかで目を開けながらそれぞれの夢を見ていたことになります。
そこには、どんなに遠い地域からも、友だちと朝早くに歩いて出かけ、観る前にお気に入りの喫茶店でコーヒーを飲み、入場券を買って階段を駆け上がり、席を選んで始まるまでのひと時を過ごし、いよいよ本編の開始に息をのみ、「END」のあとの余韻に浸って、外に出た瞬間にそのまぶしさに顔をしかめ、とっておきのお店まで散歩をし、また歩いて帰りながら今日の物語を反芻するといった数々の出来事があったということでもあるのでしょう。
こうした営みの集積が思い出をつくり、結果として街への誇りや詩情などへもつながっていきますが、最近の映画を観る場所となると、特別な思い出にもなることが乏しいような気がしてなりません。
いま、県内の映画館は9館。そのうちショッピングモール内にあるシネマコンプレックスが8館を占めます。
「観ておかないと時代の空気に乗り遅れます」という観念に煽られて、同じような新しい町の、同じような空間で、同じような作品を、同じような人たちと観ることは、感じ方や想像する事までもが同じようになってしまいそうで、なんだか怖かったりもします。
映画を映画館で観るという記憶は、数々の映画館の、そして「街」のそれぞれの人の思い出にいつでもつながっていて欲しいと心から思います。
また、郊外型の映画館だけでは、子どもやお年寄り、障害をもつ人たちや、車を持たない人といった社会的に弱い立場にある人たちの、映画を観る機会を確実に奪ってしまっているのも現実です。
同時に、増え続けるシネコンだけではスクリーン数は増えても上映作品は減り続け、地方における映画を中心とした文化的環境の過疎化と、大都市との文化享受の機会の格差もじわじわと広がってきています。
今ほど、映画館は街を、街は映画館という場所を必要としている時はないのではないでしょうか。
かつて共にあった場所が ひとつひとつなくなろうとしています。
家庭の茶の間。街の喫茶店。本屋さん。映画館。
そして、子どもたちとお年寄りの絆。
シネマまえばしは
新しいものを作ろうとしているのではありません。
ただ 昔からあるものを 昔のままに 守っていきたいと思っています。
子どもたちの 子どもたちの 子どもたちのために
2009年10月 前橋芸術週間









